高岡漆器の歴史

history

高岡漆器は、江戸時代の初めに、加賀藩の藩主前田利長が、現在の富山県高岡市に高岡城を築いたとき、武具や箪笥、膳等日常生活品を作らせたのが始まりです。その後、中国から堆朱(ついしゅ)、堆黒(ついこく)等の技法が伝えられ、多彩な色漆を使って立体感を出していく彫刻塗、錆絵(さびえ)、螺鈿(らでん)、存星(ぞんせい)等多彩な技術が生み出されました。高岡漆器が、町人文化の中にしっかりと根づき栄えてきたことは、高岡の祭で使われる絢爛豪華な御車山(みくるまやま)にこれら漆器の技が集められていたことからもうかがえます。

  • 螺鈿
  • 御車山01
  • 御車山02

年表で見る高岡漆器史

高岡塗のもつ、美しく温もりの感じられる光沢と感触、流麗で品のあるデザイン、伝統に培われた技法と名工達、その高岡漆器の歴史を各年代別に年表でご紹介いたします。どうぞ御覧下さい。

高岡漆器3つの技法

technique01/彫刻塗

丹念に彫り込まれた花鳥風月

彫刻塗は、江戸中期に活躍した名工、辻丹甫の技法を元祖としており、その代表的なものは高岡御車山に見ることができます。
木彫堆朱、堆黒などによる雷紋や、亀甲の地紋の上に草花鳥獣、青海波、牡丹、孔雀などを彫りだしたものが多く、立体感と独特な艶が表現できるのが特徴です。
辻丹甫の技法は慕末、板屋小右衛門らに受け継がれ、明治27年に富山県立工芸学校が設立されたことを機に、新たなデザインの開発を生みました。その後は、産業としても発展し、海外にも輸出するなど幅広い評価を得るものとなりました。
現在、高岡の彫刻漆器は、色漆による彩色技法、あるいは全体を朱塗りした後、凹部にマコモ墨を入れて陰影をつける皆朱塗りなどによって数多くの作品が生み出されています。

花鳥風月
火鉢  和田長次郎  作

彫刻は人物の肉付け、周囲の間透きに技巧を凝らし、一方、余白の部分を大きく平地にするなど、高岡彫りの特徴をよくあらわしている。明治末期から塗火鉢は得意品種であったが、これも銅打出しの落としが高岡で作られたことも大きい。
明治25年(1892年)頃の作

technique02/勇助塗

唐風意匠のなかに多彩な技巧

勇助塗とは、その名が人名であることからも判るように、江戸末期、初代石井勇助が当時唐物として珍重されていた中国、明時代の漆器の研究を重ね、生みだした新しい技法です。
特徴としては、唐風の雰囲気をもつ意匠に花鳥・山水・人物などの錆絵や箔絵を描き、要所に青貝、玉石などを施すなどの総合技法によってつくりだされるもので、繊細かつ雅趣に富んだものです。
初代勇助の分家、勇介による茶盆や煎茶器、さらに二代目勇助がつくった縞堆朱などの中にも、勇助が開発した技法が駆使されています。
こうした玉石象嵌、錆絵、縞堆朱などの格調高い作品は現在も受け継がれ高い評価を受けています。

勇助塗
箔絵高卓  石井勇介  作

文様は卓の上面に鳳凰、基台に麒麟をデザインし、脚は全体に唐草が描かれている。技法上からは総体に鮮やかな朱塗りの上に文様を箔絵描きし、要所にやや白く伏彩色された薄貝を嵌め、朱と金の配色が美しい。
明治40年(1907年)頃の作
(高岡市美術館所蔵)撮影/DVC

technique03/青貝塗

輝きが織りなす調和の美

青貝塗とは、鮑などの貝を刀・針等を用いて三角形や菱形の細片をつくり、これを組合わせて山水・花鳥を表現する技法で、江戸初期、当時の富山藩主前田正甫公が京都より招致した名工、杣田清輔に影響されて発展したといわれています。
高岡の青貝塗は、唐漆器写しから始まった薄貝技術と、朝鮮工人や奈良から習得し改良された厚貝技術があり、いずれも工人たちの意匠・技術の開発努力により今日の技法の確立がなされました。
加飾に使う貝は、飽貝のほか夜光貝、蝶貝、孔雀貝などの種類があり、飽貝には青色とピンク色が交互に輝く華やかさがあります。また、夜光貝は光沢に落ち着きと優雅な昧わいの輝きがありますが、いずれも貝特有の真珠色が漆の色艶とよく調和し、独特な昧わいをかもしだしています。

青貝塗
青貝唐山水卓  石瀬松次郎  作

青貝漆器の中で、唐物と呼ばれている代表的製品のひとつである。意匠の表現の基本は截ち切った薄貝の細片をモザイク風に組み合わせて、松葉、紅葉、笹、唐草、波、七宝文などを表現する。貝の截ち切りの方法は、棒、三角、四角などは刀で截ち、波、雲、円弧、蛤形などは蓮花ノミを用いて突き切って作られる。
大正10年(1921年)頃の作