高岡漆器の歴史

history

高岡漆器は、江戸時代の初めに、加賀藩の藩主前田利長が、現在の富山県高岡市に高岡城を築いたとき、武具や箪笥、膳等日常生活品を作らせたのが始まりです。その後、中国から堆朱(ついしゅ)、堆黒(ついこく)等の技法が伝えられ、多彩な色漆を使って立体感を出していく彫刻塗、錆絵(さびえ)、螺鈿(らでん)、存星(ぞんせい)等多彩な技術が生み出されました。高岡漆器が、町人文化の中にしっかりと根づき栄えてきたことは、高岡の祭で使われる絢爛豪華な御車山(みくるまやま)にこれら漆器の技が集められていたことからもうかがえます。

  • 螺鈿
  • 御車山01
  • 御車山02

年表で見る高岡漆器の歴史

1500年代

1585年(天正13年)
前田利長が守山城にはいる
1588年(天正16年)
豊臣秀吉が御陽成天皇聚楽第行幸を仰ぎ奉る
このとき使用された御所車が後に高岡御車山になる
1598年(慶長3年)
前田利長が加賀二代藩主となる

1600~1700年代

1600年(慶長5年)
※関ケ原の戦い
1603年(慶長8年)
※徳川家康が征夷大将軍となり徳川幕府を開く
1609年(慶長14年)
●前田利長が高岡に築城
町民に聚楽第行幸時の御所車を分け与える
高岡御車山祭の始まり(慶長16年)
●大場庄左衛門が新川郡大場村より指物屋町へ移住(家具を製造し、これに漆を塗る)
■赤物塗が始まる
■箪笥、長持、針箱などを職人が製作し消費者に直接販売する
1614年(慶長19年)
前田利長没す
1615年(元和元年)
一国一城令により高岡城が廃止
■このころ高岡にて仏壇の製造が始まる
1635年(寛永12年)
※徳川幕府が鎖国令を発令
1688~1704年(元禄年間)
●この頃に相当練達した蒔絵技術者で、ぬしや八兵衛なる者がいたという
■椀、膳、盆などが作られ始める
1764~1772年(明和年間)
●辻丹甫が京都にて修業、帰郷して擬堆黒・朱、存星など支那の漆器法を伝える
■丹甫塗が始まる(擬堆黒・朱)

1800年代

1804~1818年(文化年間)
●この頃に砺波屋桃造なる者が鳴鳳堂と称した
1810年(文化7年)
●初代石井勇助生まれる
1818~1830年(文政年間)
●板屋小右衛門が存星、木彫彩漆に妙技を振う
■明和から文政年間にかけて、辻丹甫、砺波屋桃造、板屋小右衛門が活躍
盆、重箱、菓子器などを作り高岡塗の基礎を築く
1827年(文政10年)
●初代三村卯右衛門生まれる
1830~1844年(天保年間)
●高森重次郎が仏壇塗師を始める
1839年(天保10年)
●前田斉泰が高岡に宿泊し、存星刻硯屏(板屋小右衛門作)、堆黒文箱(伊勢領屋桃二作)二点を買い上げる
1843年(天保14年)
●二代石井勇助生まれる
1848~1860年(嘉永~安政年間)
●大場屋が製漆商を始める(高岡における製漆商の始まり)
1850年(嘉永3年)
●勇助塗の確立
●各種の材料、技法を併用した勇助塗を創始する(初代石井勇助)
1853年(嘉永6年)
※浦賀にペリー来航
1858年(安政5年)
※日米修好通商条約を締結
■幕末から明治にかけて初代勇助、三村卯右衛門らが錆絵と玉石・貝などで、花鳥・山水・人物などを表現(棚・小家具が中心)
1862年(文久2年)
●立野太平治生まれる
1868年(明治元年)
●錆絵、彩漆の研究は、高岡独自の錆絵技法を確立する(初代三村卯右衛門)
1871年(明治4年)
※廃藩置県
■明治に入ると、茶棚・器局・卓台・飾棚が、勇助塗で盛んに作られ、針指箱・櫛箱・長持・膳など嫁入り道具や、杉材を使用して火鉢・床卓なども作られた
1872年(明治5年)
※新橋―横浜間に鉄道開通
1873年(明治6年)
●ウィーン万国博覧会に初代石井勇助が出品
審査官に納富介次郎が就任
1876年(明治9年)
フィラデルフィア万国博覧会の審査官に納富介次郎が就任
1877年(明治10年)
●内国勧業博覧会にて初代石井勇助が妙技賞を受賞(シカゴ・パリ)
●駒栄善助、石井勇助、三村松斉らが、県の補助を得て初めて先進地視察を行う
1881年(明治14年)
●第二回内国勧業博覧会にて初代石井勇助が妙技賞を受賞
1882年(明治15年)
●立野太平治が青貝加工を始める
●三村卯右衛門没す
1886年(明治19年)
●初代石井勇助没す
1887年(明治20年)
納富介次郎が石川県金沢区工業学校校長に就任
1888年(明治21年)
高岡の大火で八百戸を消失
1889年(明治22年)
高岡市市制施行
※大日本帝国憲法発布
1890年(明治23年)
●第三回内国勧業博覧会にて二代石井勇助が妙技賞を受賞
高岡銅器組合結成
1892年(明治25年)
堀二作、初の民間出身の市長となる
1893年(明治26年)
●県立工芸品陳列所桜の馬場公園内に開設
(一年半で閉鎖される)
1894年(明治27年)
●富山県工芸学校設立 初代校長に納富介次郎、彫刻科教諭に村上九郎作を迎える
※日清戦争が勃発
1896年(明治29年)
商工会議所 創立
1897年(明治30年)
■鯛盆、手ぐり盆を創始し特産彫刻となる(村上九郎作)
1899年(明治32年)
富山―敦賀間に北陸線開通
高岡市大火で四千余戸を消失

1900年代

1900年 (明治33年)
北陸線米原で東海道線に接続
1901年 (明治34年)
●富山県工芸学校が富山県立工芸学校に改称
●工芸学校に石井与三吉、三村卯右衛門らが嘱託として在籍
1903年 (明治36年)
●第一回尚美展開催(県立工芸学校)
1907年 (明治40年)
●朝日新聞に夏目漱石の「虞美人草」連載
1909年 (明治42年)
●高岡物産陳列所設立 皇太子(後の大正天皇)北陸行啓
●大坪商会設立、資本金五万円、主に彫刻漆器を輸出(大正八年には高岡漆器商会と改称)

1910年代

1910年 (明治43年)
■挽き物木地で火鉢を製造(金丸次郎平)
■明治末から大正にかけて手ぐり鯛盆を製作する(朴木村の舟木喜太郎)
1912年 (明治45年/大正元年)
●高岡漆器購買販売組合設立 組合長三代石井勇助
1913年 (大正2年)
信越線開通により米原を経由することなく東京へ行けるようになる
●東京市場に高岡漆器を紹介(二塚安太郎)
●富山県工業試験場開設 (場長、伊藤宜良が工芸学校校長を兼任)
●三角ノミの研究が行われる(富山工業試験場)
※第一次世界大戦に参戦
1915年 (大正4年)
●高岡漆器同業組合設立
●高岡唐漆器部会誕生
■大正初期、むきみかん火鉢が高岡独特のデザインで人気を博す
1916年 (大正5年)
●網代彫漆器の量産が始まる
1917年 (大正6年)
●木彫会誕生
●和田慶治が三角ノミを研究・実用化
1919年 (大正8年)
■輸出漆器が盛んになる
●高岡市立商工実修学校漆工部で技術養成を行う(生駒弘)
●商工実修学校漆工部の第一回卒業生が漆芸みどり会を発足
この時代の漆器
1915年/むきみかん火鉢
むきみかん火鉢
1919年/輸出漆器(インクスタンド)
輸出漆器

1920年代

1921年 (大正10年)
●高岡市工芸図案講習会始まる(大正十年~昭和四年まで毎年1カ月間実施)講師には東京美術学校教授 島田佳矣、広川松五郎、山崎覚太郎らがあたる
●高岡物産陳列所を高岡市商品陳列場に改称
●漆芸みどり会第一回展
1923年 (大正12年)
※関東大震災
1924年 (大正13年)
●布目弥逸が修業のため昭和三年まで吉田工房(奈良)に出向く
●木村天紅が朝鮮螺鈿の技術及び工人を移入
1925年 (大正14年)
■手付茶櫃(ちゃびつ)の生産が多くなる
1926年 (昭和元年)
●国井喜太郎が富山県工芸学校校長に就任
1928年 (昭和3年)
●同業組合で意匠新案登録制度一号を登録(石瀬松次郎)
商工省工芸指導所(仙台)の初代所長に国井喜太郎が就任
●彫刻技法にトントン彫始まる
■錆絵の屠蘇器、曙塗の会席膳煙草盆の全盛期
■大正末期から昭和にかけてビール盆・電燈台・帽子台菓子器などが作られ輸出も盛んに行われた
この時代の漆器
1925年/手付茶櫃
手付茶櫃
1928年/屠蘇器(七つ揃え)
屠蘇器

1930年代

1930年 (昭和5年)
●くり物木地師と彫刻師の分業が始まる(角屋長太郎)
●彩色溜塗が行われる
1931年 (昭和6年)
※満州事変が勃発
1933年 (昭和8年)
■恵比寿、大黒など彫刻丸盆の本格的量産が始まる(高木作次郎)
※国際連盟を脱退
●高岡で鎌倉風の彫刻塗が行われるようになる
1935年 (昭和10年)
●この頃の庄川挽物は殆どが高岡漆器の木地生産で占められていた
1937年 (昭和12年)
●朝鮮螺鈿工人が帰郷
●支那事変により漆の輸入が少なくなり、仏師地が一般化する
●高岡市商品陳列所を高岡市商工奨励館と改称
※支那事変
■この頃勲章箱の生産盛んに行われる
1938年 (昭和13年)
●高岡漆器工業組合設立
1939年 (昭和14年)
●漆の配給制実施
この時代の漆器
1937年/勲章箱
勲章箱

1940年代

1940年 (昭和15年)
■曲物火鉢の生産始まる
1941年 (昭和16年)
●藁パルプ製素地の試作(富山県工業試験場)
※太平洋戦争勃発
1942年 (昭和17年)
●富山県漆器統制組合設立
■二上滑空機株式会社設立しグライダー生産を行う
1945年 (昭和20年)
※広島、長崎に原爆投下
※ポツダム宣言受諾、第二次世界大戦終わる
1946年 (昭和21年)
●富山県漆器統制組合を富山県漆器事業協同組合に改称
■手提げ袋の持ち手(木口)を生産
1947年 (昭和22年)
●技術工芸義塾を開く(武田儀八郎)
●金胎漆器の研究(県工業試験場)
●市商工奨励館に貿易館開設
1948年 (昭和23年)
●カシュ塗料講習会実施(県工業試験場)
●県立工芸学校を県立高岡工芸高等学校に改称
●ベークライト素地漆器を輸出(高木作次郎)
■勲章箱の半製品を進駐軍向けに宝石箱・煙草入れに転換して生産
物資不足で長手盆などの実用品が中心になる
1949年 (昭和24年)
●高岡市、重要漆工集団産地の指定を受ける
※一ドル三六〇円の単一為替レート発表
この時代の漆器
1940年/曲物火鉢
曲物火鉢

1950年代

1950年 (昭和25年)
●板物木地の機械生産が始まる(駒井信吉)
■金胎漆器の生産、玉虫塗が流行する
1951年 (昭和26年)
●漆の入手が困難になる
●技術工芸義塾を市立塗装指導所に昇格
●市塗装技術指導所開設(所長、山崎立山)
高岡産業博覧会を高岡古城公園で開催
高岡市立美術館開館
1953年 (昭和28年)
●木材の高周波成型の研究(県工業試験場)
●高岡漆器産地診断(診断長、磯部喜一)
1954年 (昭和29年)
●第二回全国漆器展で団体優勝(高松宮杯を獲得)
■昭和二十九年から三十三年頃、大手電機メーカーの電熱火鉢が生産額の五割を超える
1956年 (昭和31年)
■ポリエステル盆を生産(新高産業)
■昭和三十年代から機械加工で量産化を始める(駒井信吉)
■プラスチック素地材による盆菓子器・ベリーセット・回転オードブル皿などが盛んになる
1958年 (昭和33年)
●高岡漆器意匠審議会発足
●日中貿易の中断により漆の輸入が途絶え、漆からカシュ塗料への転換が進む
■石油ストーブや電気こたつなどの暖房革命で、塗火鉢の生産が激減する
文庫・硯箱・パネルなどの室内装飾品が出始める
1959年 (昭和34年)
●日本漆器青年研究会開催
この時代の漆器
1954年/電熱火鉢
電熱火鉢

1960年代

1960年 (昭和35年)
●合成樹脂を素材にした安価な製品が全国で出回る
●高岡御車山が国の重要民俗文化財に指定される
※日米新安全保障条約調印
1961年 (昭和36年)
●第一回高岡市特産見本市開催
1962年 (昭和37年)
●市立塗装指導所廃止となる
1963年 (昭和38年)
積雪225cmを記録
1964年 (昭和39年)
●彼谷芳水が県指定無形文化財保持者に認定
※東海道新幹線開通
※東京オリンピック開催
1965年 (昭和40年)
●富山県漆器意匠審議会設立
●高瀬想風が富山県指定無形文化財に認定
1967年 (昭和42年)
●高岡市伝統工芸産業技術者指定表彰開始
●高岡漆器工業産地診断(診断長、安倍郁二)
1968年 (昭和43年)
●高岡市特産産業技術者養成スクール開始
1969年 (昭和44年)
●高岡市デザイン指導所開設

1970年代

1970年 (昭和45年)
●(協)高岡漆器センター共同工場完成(理事長、黒田長太郎)
1971年 (昭和46年)
●「富山県漆工総覧」発行
●高岡巧美会設立
1973年 (昭和48年)
●商工ビル内に市商工奨励館開設
※第一次オイルショック
■あかね盆の開発
■オイルショックで物価急騰、ウレタン塗装品が出始める
インテリア・文具の製品開発が活発化
1974年 (昭和49年)
●伝統的工芸品産業振興法施行
●高岡伝統産業青年会発足
1975年 (昭和50年)
●高岡漆器が通商産業大臣指定伝統的工芸品となる
●伝統工芸高岡漆器協同組合設立
1977年 (昭和52年)
●高漆会設立(現・高岡漆器伝統工芸士会)
1978年 (昭和53年)
●発展途上国の製品の流入
1979年 (昭和54年)
※第二次オイルショック

1980年代

1981年 (昭和56年)
●(社)日本漆工「高岡漆器」誌発行
1983年 (昭和58年)
●(財)高岡地域地場産業センター設立
同所に、高岡市工芸デザイン指導所開設
●国立高岡短期大学開学
●新商品開発事業(金胎漆器/ふくろう、孔雀)
1984年 (昭和59年)
●「高瀬想風展」開催(高岡市立美術館)
1985年 (昭和60年)
●高岡漆器、地場産業デザイン高度化特定事業実施
●高岡漆器青年会設立
●記念誌「10年の歩み」発行
●初代石井勇助没後百年事業開催
●インテリア壁面タイルの研究実施(県工業試験場)
1986年 (昭和61年)
●富山県工業技術センター、二上に開設
●第一回、工芸都市高岡クラフトコンペ開催以降、毎年行われる
1987年 (昭和62年)
●日本漆器(協)連合会の高岡大会開催
1988年 (昭和63年)
●富山インダストリアル・デザインセンター設立
●カシュ樹脂塗装の臭気除去に関する研究を実施(県工業技術センター)
1989年 (平成元年)
●中小企業事業転換対策事業実施 塗りのインテリア素材開発事業開始
後の「NURI・サーフェス高岡」への基盤となる(粟辻博)
※バブル経済が崩壊
※デザインイヤー開催

1990年代

1990年 (平成2年)
高岡市制百周年
●「NURI・サーフェス高岡」開催(AXIS)
●螺鈿による加飾の研究実施(県工業技術センター)
●大井見太郎が富山県指定無形文化財に認定(蒔絵技術)
1991年 (平成3年)
●「NURI・サーフェス高岡PART2.」開催(AXIS)
●工芸三機関合同展開催
(高岡短大・工業技術センター・工芸デザイン指導所)
●(社)日本漆工協会高岡大会開催
●「うるしアートとやま展」開催(高岡市立美術館)
●室内インテリア製品の開発(県工業技術センター)
1993年 (平成5年)
●「彼谷芳水回顧展」開催(富山県民会館美術館)
●地域資源等活用型起業化事業実施
「NURI・サーフェス高岡PART3.」開催(AXIS)
1994年 (平成6年)
●高岡市美術館が中川に移転・新築
●彼谷芳水没す
●高岡市伝統工芸技術伝承事業実施(乾漆)
1995年 (平成7年)
●銀座松屋にて黒川雅之氏と高岡漆器(協)による「百の盆」展を開催
●高岡市美術館にて「山崎覚太郎展」開催